ギャル式綴方教育

S U P E R G A L

太眉で関西弁でデカパイとは何の謂いか

 今からもう6年ほど前になるが、ゆるキャンというアニメの第1期が放送されていて、当時のオタクの例に漏れず「きららアニメ」の看板に釣られて(当時はきららフォワード連載だった)私も視聴することにした。これまでの日常系にあまりない写実的な背景やキャンプ描写に気圧されながらぼーっとみていたら、太眉で関西弁でデカパイでcv豊崎愛生のキャラクターが出てきて、おもわず「エロすぎだろ...」と呟いてしまった。私はこれを「犬山あおいの衝撃」と呼んでいる。

犬山あおいが衝撃的だったのは、ただ太眉で関西弁でデカパイでcv豊崎愛生であったから、というわけではない。あまりにも「日常系」または「きらら」の枠をはみ出した下品さ。衝撃以外の何物でもなかった。こんなのアリ!?この犬山あおいの前代未聞の下品さに惹かれたことは言うまでもない。

ところで、往々にして萌えアニメーションというのは性的な目線を経なければ成立しない、言うなれば「シコってる」わけだが、日常系アニメにおいてその「シコってる」性がいかに表出するか、というのは少し複雑な話になる。日常系はある外延を確定してその内部(日常)を描くことで日常系足りうるが、その外延をどう描くか、ということと「シコってる」性というのは重なるからだ。日常系の始祖とも言っていいあずまんが大王においてはメインキャラクターたちをひたすら性的な目線で見る木村というトチ狂った教師の存在がことさら際立っているが、いわばこの木村の存在が大阪さんとセックスしたいとか、神楽さんと結婚を前提としたお付き合いしたいとか考えているような視聴者(私です)の暗示であると言える。あずまんが大王ほど直接的かつ原始的()な表出の仕方はその後全くと言っていいほど出てこない(どころか今やってもおそらく叩かれるだけだろう)が、結局のところどんな日常系においてもその日常の外部の示唆とさらに超越的な視聴者=私たちの存在の示唆が含まれている。

ゆるキャンに戻ると、このアニメ、それまでにはあまり見られなかったほどに背景やキャンプ描写に力を入れていて、写実的なのは勿論のこと実際の現実の中にアニメキャラクターの日常がポンと置かれているような特殊な感覚を覚える。それでも彼女達の日常が日常たりえているのは彼女達の外部に関して中途半端にではなく徹底的にリアリズムを貫くことで、逆説的に彼女たちの日常が守られているのだと思われる。

  また脇道に逸れるが、萌えアニメーションにおいてリアリズムや自然主義というのは厄介なもので、某都アニメーションに代表される萌アニメーションにおける自然主義リアリズムの伝統は、これが単なるお茶目なアイロニーに収まれば良いのだが、それを本気で貫いてしまうと、すなわち、キャラクター描写から何から何まで自然主義リアリズムを貫いてしまうと、視聴者は性的な話題にブチギレる自意識過剰な思春期の少年みたいな意味のわからない意識の高さをただ見せつけられるだけになってしまう。萌えキャラクターを描くことの「シコってる」性というのは当然ここでも関係してくるわけで、萌えキャラクターを描いておきながら「いや、私シコってませんよ」みたいな謎アピールをされてもこちらはただ困惑するしかない。この写実性や自然主義リアリズムを上手く調整できている例は少ないが、こと日常系においてはあまり問題になることはない(というか、日常系とは何か、というのが共通認識として暗黙のうちに守られているのだと思う)

で、犬山あおいだが、一見すると、犬山あおいの下品なエロスをを語るさいにそのキャラクター造形に触れるだけで十分なように思われる。太眉で関西弁でデカパイでcv豊崎愛生、すぐに嘘をつく(「クリスマスは彼氏と過ごす など」)、スーパーでレジ打ちのバイトをしている......勿論これだけで十分エロいのだが、やはり犬山あおいが1つの衝撃たる所以は、ゆるキャンというアニメに存在するから、だろう。写実的な自然描写の中で明らかに自然には存在しない美少女達が現実のおっさんがやっているようなキャンプをやっている。この中であってこそ、犬山あおいの下品なエロスが最も輝く。ガワは萌えキャラクターで、かつ文字通りの日常系の渦中にいる彼女だが、すぐ嘘をつくしスーパーでパートのおばさんに混じってバイトをしているし、服を脱げばダサめのブラをつけていてかつブラ紐が乳の重みに負けて引っ張られている(この描写は決定的だと思う)し、2期で1人だけ主婦みたいな私服を着ている。しかしこの犬山あおいの下品なエロスは彼女達の日常を破壊しないどころか強化している。この犬山あおいの下品さが現実とアニメーションにおける日常の境界線になっている。美しいなでしこたちの日常は犬山あおいのデカパイによって守られている。

犬山あおいの下品エロスによって守られる日常が存在する。また同時に、それによって歓喜される劣情も存在する。両者は交わることは無い。しかしながら、この日常と劣情はどちらが欠けてもならない。日常と劣情は相補関係にある。

私は、声豚では、ありません。episode.0

 

〜とある法廷にて〜

検察官が、俯き加減のオタクに問う。

「お前は声豚か?」

「違います……

「じゃあ何故お前はそんなに毎日何時間も気持ち悪い笑みを浮かべながら声優ラジオを聞き、声優のSNSを眺めているんだ?」

「好きだからです……

「声優が好きなんだろ?じゃあ声豚じゃあないか」

「違います……違うんです……僕は……

「一体何が違うというんだ!」

「僕は……声優ラジオのオタクなんですッッッッッ!!!!!!」

 

そもそも声豚とは、なんだ?声優のどこを好きなら声豚になるのだろう。声優はその名のごとく声で商売をしている訳だが、その声優の声のみを仮に「推した」場合、その声のみを推しているオタクは声豚なのか。仮にアイドルなどを例に取った場合、そのアイドルの部位を、部分を切り取る形で「推す」ということはなかなかないように思われる。しかしそれでも「声豚」という言葉が存在するのは、声優が声のみで商売をしているとは限らないからだ。近年その傾向が特に著しいが、声優——声で演じることを生業とする——その人自体をひとつのコンテンツにするというような傾向が存在しているために、元々声というある種の部位を使って仕事をする声優を「推す」ということが可能になり、声豚が発生したのだと考えられる。そのようなコンテンツ化された声優その人のオタクは声豚と呼ばれる。そしてその声優はアニメのキャラクターに声をあて、キャラクターを演じた「声優」として、あるアニメの内部にある1コンテンツとしての「アニラジ」つまり声優のラジオが生まれた。そして現在アニメやゲームなど声優が演じることを前提としたコンテンツ内部のコンテンツとしてのアニラジだけでなく、声優その人がパーソナリティ——つまり、その人自身——として出演するラジオが存在し、そのようなラジオも「アニラジ」と呼ばれる。

  先に触れた声優のコンテンツ化とは、そのほとんどが何がしかのコンテンツ、つまり声優がキャラクターに声をあてることに紐付けられている。要するに2次元のキャラクターを通して、——通してという言い方はあまり適切ではない、やはり紐付けられている、というのが正しい——「中の人」を見、同一視するにせよ分離して見るにせよ、ある種のキャラクターとの紐付けの中で生まれている。

多くがキャラクターを出発点として声優その人を結果的に推すことになるだろう。しかしある2次元コンテンツを出発点としたことは紛れもない事実であり、そこから出発したオタクは割と正統に、「声優のオタク」であると言える気がする。なぜなら声をあてている俳優さんを好きになったのだから、それは声優のオタク以外のなんであろうか。

問題は、先に触れたアニラジである。声優のコンテンツ化が過激化している近年はコンテンツ内部のコンテンツとして以上に声優その人自身が自らの名で番組を持つことが多くなっている。そしてその供給は当然先程の「声優のオタク」の需要に向けられている。それを聞く多くのリスナーは当然そのような「コンテンツ化された声優さん」が話すのを聞きに来ている。そこでは「ラジオパーソナリティとしての声優」が生まれるわけだが、「コンテンツ化された声優」という現象の前には意味をなさないように思われる。なぜならコンテンツ化された声優が演技と関係なく話すということに全く問題がなく、それを前提として成立しているため全く問題にならないからだ。

すこし話が変わるが、そのようにして「アイドル声優」なるものが生まれたのだと思う。先に触れた2次元コンテンツに紐付けされた上でのコンテンツ化を経て、声優であり独立したアイドルであるというようなコンテンツ化の仕方、それがアイドル声優であり、その「アイドル」の側面においては実際は2次元コンテンツとの紐付けが多いが、アイドル声優という権利上、紐付けがなくても問題がないようになっている。つまり、このアイドル声優という言葉は、そんなに「声優その人」にフォーカスするんなら、もういっそのこと声優にアイドルつけちゃえ、的なことで生じたのだと思われるが、その内実はその人自身のコンテンツ化が先立ちながら2次元のキャラクターに声をあてる、というある種の逆転現象を生み出している。尤も、最終的にはアイドル声優はそのほとんどがアイドル業と声優業を紐付けることで声優のコンテンツ化の最たるものとして君臨するに至る訳だが。

  話をアニラジに戻そう。パーソナリティとしての声優は大部分のリスナーからは「声優のコンテンツ化」を前提としているために、2次元コンテンツの紐付けにより生じたコンテンツ化された声優を「推」しているオタクがその声優の話を聞くために聞くものが現在の大部分の「アニラジ」である。実際、アニラジを聞いてみれば、そのほとんどが相当に「ユル」く、特に笑いを誘うものでも無ければ、特にこれといって内容があるわけでもなく得られるものもない。おそらくこの「ユル」さがある種のコードとして働いており、それがコンテンツ化された声優それ自体とそのコードを前提として聞くものとして、言ってしまえばラジオそのものとしては自律しないものとしてのアニラジという存在を規定しているように思われるのだ。

しかし、そこにあまり事情を知らずに迷い込む人も多くはないがいるだろう。あまり事情を知らなくても、仮に声優には疎いがアニメが好きな人が、偶然好きなアニメの声優のラジオを聞きそのアニメに出演していた声優だと分かれば紐付けによってコンテンツ化された声優と結びつけもできよう。しかしそうでなかった場合、おそらく大半の人は「なにこれ?」と思って直ぐに聴くのを辞めてしまうだろうが、それにハマってしまう物好きも多くはないが存在する。この世で最も悲しいモンスター、「声優ラジオオタク」の誕生である。声優ラジオオタクは、声優のコンテンツ化には興味が無いが、声優ラジオを好む、という謎の存在であり、その番組の「パーソナリティ」のことを「推す」可能性がある。その場合、このオタクは一体なんなのか。おそらくコンテンツ化された声優の話を聞きに来ているリスナーとも何か違うような感覚を味わうだろう。この人(たち)が出演するアニメにもこの人(たち)の声にも別に対して興味はない。しかしこの人(たち)の話が、この人(たち)の話している空間が好きなのだ。そして何よりラジオのパーソナリティとしてのこの人(たち)が。そもそもパーソナリティとしてのこの人(たち)以外に興味が湧かない。というかそもそも声優の名を知っていようと、その声優がラジオで話しているのを聞かない限り、つまりその声優がパーソナリティにならない限り、その声優に対してなんの関心も湧かなければなんの判断もできない。声優ラジオオタクにっとては全てがラジオありきなのだ。

ここまで来てしまえばもう声優のコンテンツ化等とは全く別の問題になってしまう。そのようなアイデンティティを微妙〜に損なっている「声優ラジオオタク」たちは一体自分たちをどう形容すればいいのか。もう「私は声優ラジオオタクです」以外に言い様がない、と感じてしまうに違いない。

  という感じで、現在私自身は問答無用で声豚なのだが、先に触れた場合とは少々異なるものの元を辿れば似たような感じで声優ラジオオタクであり、そこから徐々にただの声豚になって行った身としてはずっと声優ラジオそのものに対する特別な感情を持ち続けていた。そしてそのような自らは単なる声豚であるという認識と声優ラジオオタクであるというような両儀的な認識をどうにもできず違和感を押し殺す形ではあるが一応の留保として後者の「声優ラジオオタク」を自称していたが、その生活もなんか終わりそうなので、どうにかこの声優ラジオオタクという違和感のある、ある種アイデンティティを欠く存在について素描してみたく思い、書いてみた。

水を打ったように静まり返った場内で、ついに裁判官が口を開く。

「ふ〜ん、どっちにしろキモいから死刑で」

〜閉廷〜

私は、声豚では、ありません。episode.0

 

〜とある法廷にて〜

検察官が、俯き加減のオタクに問う。

「お前は声豚か?」

「違います……

「じゃあ何故お前はそんなに毎日何時間も気持ち悪い笑みを浮かべながら声優ラジオを聞き、声優のSNSを眺めているんだ?」

「好きだからです……

「声優が好きなんだろ?じゃあ声豚じゃあないか」

「違います……違うんです……僕は……

「一体何が違うというんだ!」

「僕は……声優ラジオのオタクなんですッッッッッ!!!!!!」

 

そもそも声豚とは、なんだ?声優のどこを好きなら声豚になるのだろう。声優はその名のごとく声で商売をしている訳だが、その声優の声のみを仮に「推した」場合、その声のみを推しているオタクは声豚なのか。仮にアイドルなどを例に取った場合、そのアイドルの部位を、部分を切り取る形で「推す」ということはなかなかないように思われる。しかしそれでも「声豚」という言葉が存在するのは、声優が声のみで商売をしているとは限らないからだ。近年その傾向が特に著しいが、声優——声で演じることを生業とする——その人自体をひとつのコンテンツにするというような傾向が存在しているために、元々声というある種の部位を使って仕事をする声優を「推す」ということが可能になり、声豚が発生したのだと考えられる。そのようなコンテンツ化された声優その人のオタクは声豚と呼ばれる。そしてその声優はアニメのキャラクターに声をあて、キャラクターを演じた「声優」として、あるアニメの内部にある1コンテンツとしての「アニラジ」つまり声優のラジオが生まれた。そして現在アニメやゲームなど声優が演じることを前提としたコンテンツ内部のコンテンツとしてのアニラジだけでなく、声優その人がパーソナリティ——つまり、その人自身——として出演するラジオが存在し、そのようなラジオも「アニラジ」と呼ばれる。

  先に触れた声優のコンテンツ化とは、そのほとんどが何がしかのコンテンツ、つまり声優がキャラクターに声をあてることに紐付けられている。要するに2次元のキャラクターを通して、——通してという言い方はあまり適切ではない、やはり紐付けられている、というのが正しい——「中の人」を見、同一視するにせよ分離して見るにせよ、ある種のキャラクターとの紐付けの中で生まれている。

多くがキャラクターを出発点として声優その人を結果的に推すことになるだろう。しかしある2次元コンテンツを出発点としたことは紛れもない事実であり、そこから出発したオタクは割と正統に、「声優のオタク」であると言える気がする。なぜなら声をあてている俳優さんを好きになったのだから、それは声優のオタク以外のなんであろうか。

問題は、先に触れたアニラジである。声優のコンテンツ化が過激化している近年はコンテンツ内部のコンテンツとして以上に声優その人自身が自らの名で番組を持つことが多くなっている。そしてその供給は当然先程の「声優のオタク」の需要に向けられている。それを聞く多くのリスナーは当然そのような「コンテンツ化された声優さん」が話すのを聞きに来ている。そこでは「ラジオパーソナリティとしての声優」が生まれるわけだが、「コンテンツ化された声優」という現象の前には意味をなさないように思われる。なぜならコンテンツ化された声優が演技と関係なく話すということに全く問題がなく、それを前提として成立しているため全く問題にならないからだ。

すこし話が変わるが、そのようにして「アイドル声優」なるものが生まれたのだと思う。先に触れた2次元コンテンツに紐付けされた上でのコンテンツ化を経て、声優であり独立したアイドルであるというようなコンテンツ化の仕方、それがアイドル声優であり、その「アイドル」の側面においては実際は2次元コンテンツとの紐付けが多いが、アイドル声優という権利上、紐付けがなくても問題がないようになっている。つまり、このアイドル声優という言葉は、そんなに「声優その人」にフォーカスするんなら、もういっそのこと声優にアイドルつけちゃえ、的なことで生じたのだと思われるが、その内実はその人自身のコンテンツ化が先立ちながら2次元のキャラクターに声をあてる、というある種の逆転現象を生み出している。尤も、最終的にはアイドル声優はそのほとんどがアイドル業と声優業を紐付けることで声優のコンテンツ化の最たるものとして君臨するに至る訳だが。

  話をアニラジに戻そう。パーソナリティとしての声優は大部分のリスナーからは「声優のコンテンツ化」を前提としているために、2次元コンテンツの紐付けにより生じたコンテンツ化された声優を「推」しているオタクがその声優の話を聞くために聞くものが現在の大部分の「アニラジ」である。実際、アニラジを聞いてみれば、そのほとんどが相当に「ユル」く、特に笑いを誘うものでも無ければ、特にこれといって内容があるわけでもなく得られるものもない。おそらくこの「ユル」さがある種のコードとして働いており、それがコンテンツ化された声優それ自体とそのコードを前提として聞くものとして、言ってしまえばラジオそのものとしては自律しないものとしてのアニラジという存在を規定しているように思われるのだ。

しかし、そこにあまり事情を知らずに迷い込む人も多くはないがいるだろう。あまり事情を知らなくても、仮に声優には疎いがアニメが好きな人が、偶然好きなアニメの声優のラジオを聞きそのアニメに出演していた声優だと分かれば紐付けによってコンテンツ化された声優と結びつけもできよう。しかしそうでなかった場合、おそらく大半の人は「なにこれ?」と思って直ぐに聴くのを辞めてしまうだろうが、それにハマってしまう物好きも多くはないが存在する。この世で最も悲しいモンスター、「声優ラジオオタク」の誕生である。声優ラジオオタクは、声優のコンテンツ化には興味が無いが、声優ラジオを好む、という謎の存在であり、その番組の「パーソナリティ」のことを「推す」可能性がある。その場合、このオタクは一体なんなのか。おそらくコンテンツ化された声優の話を聞きに来ているリスナーとも何か違うような感覚を味わうだろう。この人(たち)が出演するアニメにもこの人(たち)の声にも別に対して興味はない。しかしこの人(たち)の話が、この人(たち)の話している空間が好きなのだ。そして何よりラジオのパーソナリティとしてのこの人(たち)が。そもそもパーソナリティとしてのこの人(たち)以外に興味が湧かない。というかそもそも声優の名を知っていようと、その声優がラジオで話しているのを聞かない限り、つまりその声優がパーソナリティにならない限り、その声優に対してなんの関心も湧かなければなんの判断もできない。声優ラジオオタクにっとては全てがラジオありきなのだ。

ここまで来てしまえばもう声優のコンテンツ化等とは全く別の問題になってしまう。そのようなアイデンティティを微妙〜に損なっている「声優ラジオオタク」たちは一体自分たちをどう形容すればいいのか。もう「私は声優ラジオオタクです」以外に言い様がない、と感じてしまうに違いない。

  という感じで、現在私自身は問答無用で声豚なのだが、先に触れた場合とは少々異なるものの元を辿れば似たような感じで声優ラジオオタクであり、そこから徐々にただの声豚になって行った身としてはずっと声優ラジオそのものに対する特別な感情を持ち続けていた。そしてそのような自らは単なる声豚であるという認識と声優ラジオオタクであるというような両儀的な認識をどうにもできず違和感を押し殺す形ではあるが一応の留保として後者の「声優ラジオオタク」を自称していたが、その生活もなんか終わりそうなので、どうにかこの声優ラジオオタクという違和感のある、ある種アイデンティティを欠く存在について素描してみたく思い、書いてみた。

水を打ったように静まり返った場内で、ついに裁判官が口を開く。

「ふ〜ん、どっちにしろキモいから死刑で」

〜閉廷〜

綴方教育(2)

綴方教育(2)

  最近JUMADIBAの新しいミックステープ『上り』をよく聞いている。この作品に収録されている『UP』という曲に「Rooftopで読む手塚治虫」というリリックがある。このリリックを聞く度に、では私はどんな漫画を屋上で読みたいだろうか、と思案する。
 大抵は某Lで始まってOで終わる雑誌に掲載されているような作家たちの名前が思い浮かぶのだが、青空のもと誰もいない屋上でロリエロマンガを読むというのはどんな感覚なのだろうか。エロマンガというものは基本人目のつくところや屋外で読むものではないが、誰もいない屋上でエロマンガを読むという行為はどうだろう。誰の目につく訳でもないが、空に近い場所は、普段エロマンガを読んでいる暗く湿った自室とは真逆であり、ある種の解放感と、同時に罪悪感を植え付けてくるように思われる。
 話が逸れたが、冒頭でJUMADIBAの話をしたように普段私はHIPHOPをよく聞いている。HIPHOPと一口に言っても多様な派生ジャンルが存在するため、もっと明確にするべきだろうが、その幅広さゆえに記述することが難しいため、ひとまずHIPHOPとしておく。
 と言っても私は音楽全般については全くと言っていいほど詳しくなく、HIPHOP以外に聞く音楽と言ったらアニソンくらいのものなのだが、なぜ私がHIPHOPを聞いているのだろうと考えると、まず時代的な要因は必ずあると思われる。しかし私がHIPHOPを知ったきっかけは少々特異だった。
 私は2001年生まれで、来月22になるのだが、私が中学時代を過ごした2014〜2016年の3年間はいわゆる「バトルブーム」の最盛期と完全に合致している。今や伝説となったUMB2014の開催、高校生ラップ選手権の流行、そしてフリースタイルダンジョンの放送開始とHIPHOPやラップに触れる窓口となるようなコンテンツが増え、私もその流れに巻き込まれたことは間違いない。しかし私が最初にHIPHOPに触れたのは全く別の場所だった。
 中学1年の当時、私は「東方Project」というコンテンツにハマっていた。このコンテンツは原作が同人ゲーム(シューティング)なのだが、それ以上に二次創作が盛んに行われていることで有名なコンテンツである。それにしてもこの時私が「東方」にハマっていなければ今のような同人誌を大量に買い込んでは悦に入っているようなオタクにならなかったのではないかと思うと現在への影響は計り知れない。
 さて、そのように「東方」にハマっていた当時私が盛んに聞いていた音楽といえば、「東方」の原作ゲームのBGMとして使われている「原曲」とそれをアレンジしてボーカルを入れた「東方アレンジ」だった。ある日いつものように東方アレンジを漁っていると、HIPHOP調にアレンジされた東方のBGMにラップを乗せた東方アレンジがYouTubeに流れてきた。そしてさらに関連を漁ると、般若の『やっちゃった』を東方で替え歌したものを見つけた。これが私のHIPHOP、というかラップとの出会いだった(調べたらまだあった。これです→ https://youtu.be/lCtXqqxBn2g)
 その後は前述の通りバトルブームの影響でバトルを少し見たり日本語ラップの古典的な作品や流行っていたKOHHらを聞いたりしていたがイマイチピンと来ず、中学時代全体を通して一応HIPHOPに触れていたとはいえ、その表層を撫でただけで中学を卒業した。
 本格的に(?)のめり込む転機が訪れたのは中学を卒業した2017年だった。この年、私はこの年全日制の高校を1ヶ月で中退した上勉強も何もせず毎日家に引きこもってひたすらアニメを見、マンガを読み、声優ラジオを聞くというような生活を送っていた。こうして書くとどこか鬱屈とした雰囲気があるが、当時の私は常に何かしらの苦痛や不安を伴っていた中学時代の引きこもり期間や親と揉めていた高校に通うという面倒事からようやく解放された気でおり、将来に対する不安など微塵もなく、全く無為だが楽しい生活を送っていた。
 ようやくバトルブームも落ち着き始めたこの年「ラップスタア誕生!」の開始やSEEDA主催のYouTubeチャンネル「ニートTokyo」の開設などシーンの目線がバトルから曲へ徐々にスライドしていくような動きを見せていた。そんなシーンの動きをそこまで興味を持てないながらも追っていた私は「サウンドクラウドラップ」が日本で流行り始めていることを知る。
 それ以前にも日本に「ニコラップ」などのいわゆる「ネットラップ」なるものが存在し、私もその存在は知っていたが、soundcloudという世界的なプラットフォームで楽曲を発信し、ネットから有名になるというフォーマットが定着し始めたのはおそらくこの頃であり、「サンクラ」で楽曲を配信しているラッパーの曲を少しずつ聴き始めた。
 サンクラにはもともとニコニコ動画に楽曲を投稿していた釈迦坊主やsleet mageなど元々「ネットラップ」というひとつのジャンルで括られていた人々や前述ラップスタアにも出演していたTohjiなどのサンクラ文化そのものに影響を受けてラップを始めたラッパーなどそのルーツは多岐に渡っていた。他にはKiD NATHAN(現TYOSiN)やJin dogg などサンクラと密接に繋がっている「Trap metal」というジャンルを輸入するような形で取り入れたラッパーの存在も大きかった。この年に注目を浴びたXXXTENTACIONの『Look at me!』に代表されるTrap metalだが、このジャンルは日本におけるオタク文化からの影響が強く、「trash 新 ドラゴン」や「デーモンastari」などに代表されるTrap metal系のYouTubeチャンネルではアニメの動画を切り貼りする形で作られた「AMV」と呼ばれるものが公開されており、かなりの再生回数を得ている。そしてこれらのチャンネルは日本のサンクラにおけるシーンにも目を向けており、釈迦坊主やTYOSiNのMVを公開するなど日本のラッパーの海外進出にも一役買っている。特にこのTrap metalというシーンにおけるTYOSiNの躍進は凄まじく、海外のラッパーやバンドとの共演、さらに2019年にはOriginal god やkamiyadaといったTrap metalの代表的なアーティストたちが所属するクルー「Midnight Society」への参加など海外のアンダーグラウンドなシーンにおいて一定の評価を得ている。Jin doggは今となっては日本有数の売れ線のラッパーだが、当時はTrap metalのアンダーグラウンド的な作風に大きく影響を受けており、深夜の大阪日本橋の「オタロード」(西日本最大のオタク街)を舞台に撮影された『the break』(https://youtu.be/jNIXKjZzMIE)のMVは私にとって大きな衝撃だった。hookでハードコアバンドNunchakuの『都部ふぶく』における「意味なく酒飲み暴れてた/強けりゃいいと思ってた/ムカつくヤツらを待ち伏せした/外道に目の色変えていた/お巡り見つかり逃げ回った/あの時はそれで楽しかった/あの時の自分が好きだった/今の自分はもっと好き」というフレーズをカバーしながら、深夜のオタク街を背にシャウトする彼の姿はその激しいリリックとともに私の脳裏に焼き付いた。
 そしてこの年はサンクラにおけるジャンルのひとつ「エモラップ」の代表的なラッパー、lil peepが21歳の若さで亡くなった年でもある。彼の影響は生前から大きかったが、今思うと彼の死はその後のエモラップブームを長引かせる要因のひとつとなったのだと思う。
 私も例に漏れずlil peepを聞いていたが、Trap metalの激しいサウンドの方が私には合っており、海外だと$uicide boy$やGhostemaneなどの方を好んで聞いていた。それでも未だに私が完全に歌うことの出来る洋楽がlil peep×lil tracy『witchblades』(https://youtu.be/E7sP6t1QyrI)のみであることを考えると、私の音楽への造詣の浅さとともに彼の曲からの影響がなんだかんだで大きかったということがわかる。
 また、アジアのアーティストが世界から積極的にフォーカスされ出したというのも大きいだろうか。2015年の『It G Ma』が世界的に大きく話題を呼んだKeith ape やhigher brothers、Rich Brian、Jojiが所属するアジアのアーティスト集団「88rising」を知ったのもこの頃で、特にKeith apeは前述のTENTACIONやその友人のSki Mask The Slump Godと共演したりTrap Metal的な要素を多く持っていたので好きだった(一昨年辺りに余命数ヶ月であることを公表し騒がれていたが激痩せしつつもなんだかんだ生きてるようで安心である)。
  なんだかんだこの年はHIPHOPにおけるこういった文化を知ったおかげでそれまでより色々な曲を聞く事が出来たたもののあまりのめり込むというより今までと同じようにただ流行に流されるまま表層を撫でていた感じだが、どこかそれまでとは違う「ハマる」感覚に近いものを感じられた2017年という年は私にとって特別だった。
  おそらくこれらの文化、アーティストに対して今までと違った感覚が得られたのは私のルーツにかなり近いものを感じられたからだと思う。私はHIPHOPにおいてよく触れられる「フッド」的な感覚を持ってない。それは私の生まれ育った故郷が山に囲まれた糞田舎でコンビニひとつないような場所だからというのは勿論、そこで形成される社会にすら馴染めず引きこもり生活を長々続けていたためだろう。基本ずっとカーテンを閉め切った自室に篭っており、たまに窓の外を見ても緑、緑、緑で世界や社会というものと隔絶された生活を送っていたわけである。そんな生活を送り続けていたからか私には「フッド」的な感覚は形成されず、ただそこには山に囲まれた実家とそこに篭っている自分が存在しているだけだった。
 そんな感覚に近いものがサンクラからは感じられた。実際前述のTohjiは実質的なフッドを持たないために幼きころ行っていたショッピングモールを自ら、そして世界にちらばる彼の同胞たちの出自として「Mall boyz」を結成したのだし、それは彼のリリックにも色濃く現れている。
「並びお隣の顔も知らない/ニュータウンyeahビリビリ耳鳴る日々」
「生まれや育ちしがらみとけないSurburban/世界中どこでも同じ/感覚共有する初めての世代」——Tohji『flu feat.Fuji Taito』(https://youtu.be/yif68xb5rSs)
 このようなTohjiの姿勢は彼が(あるいは私が)ただインターネットネイティブであるという以上に彼の特定の「フッド」的な感覚の無さゆえに自らのルーツを新たに作り出すような姿勢として現れている。そしてこのような姿勢は実際多くのサンクラのラッパーにとって共通であり、そのような感覚が私にしっくりきたのだと思う。
 そして何より私にとってのHIPHOPとの出会い、オタク文化というルーツがサンクラにおいては大きく肯定され、取り入れられていることが大きい。フッドに対する姿勢に似たようなものかもしれないが、サンクラ的な無境界性においては様々なルーツ、すなわちどのような国で、どのような環境、ゲットーだろうが自室のPCの前だろうがなんでも肯定されており、そこにオタク文化が滑り込むことは容易だったというか当然のことだったと思う。
 そんなわけで私が16歳だった2017という年に出会った諸々は私にとってとても刺激的で共感できるものであった。ここから5.6年ほど経ちその間にも様々なアーティストや曲を知った。この数年間に私の聞く曲のジャンルや幅は広がりシーンの変化の影響も受けつつ趣味も当時からは当然変わったりしているが、それでもこの頃に受けた影響というか根本的なところは変わっていないように思われる。というのも今でも私がフッドを欠いたインターネットの中を放浪するオタクであり、やはりそこから抜け出すことはこれからもないと言えるからである。昨年には私の最も好きなラッパーのひとりであるkamuiの『YC2.5』がリリースされた。このアルバムはkamuiのファーストアルバム「Yandel City」のサイバーパンク的な世界観を引き継いでおり、つまりここでkamuiが語り続ける物語は虚構でありそこでのkamuiのフッドとは虚構の荒廃した街「ヤンデルシティ」なわけである。
 虚構の世界を舞台にしながらも「この世界の色を塗り替える/出来ないなんて思ったことはねえぜ」(『疾風』)と叫ぶkamuiの目線は現実に向かっている。このフレーズを聞く度に私は私の通ってきた道を振り返っているような感覚を覚える。フッドを欠いた私が拠り所にしたインターネットとそれを介して現実に向き合うという姿勢に近いものが感じられて胸が熱くなるのだ。そしてkamuiの持つ世界観というのは一貫してこのようであり、このアルバムはそのkamuiのキャリアの集大成と言える作品であった。私がkamuiをなかむらみなみとのユニットであるTENG GANG STARR時代から4年以上追い続けていた理由というか、彼の作る曲にある種特別な情熱をかけて聞いていた意味がこの作品でようやく明確になった気がした。
 このようにして私がラップに出会ったきっかけやハマったきっかけを回顧してみると、かなり時代的、環境的な要因によって形作られたものだったのだと気づく。ここまで時代や環境に左右されていることもそうそうないのではないかと思うが、何か特定の趣味について回顧してみると意外と大抵そんなもんなのかもしれない。
 ちなみに2017年、ヒマすぎた私は大量のアニメを見ていたと思うのだが、今思い返してみるとかなりの豊作だったようだ。まず私の好きな日常系アニメだと『ひなこのーと』や『ブレンド・S』、うまるちゃんNEW GAME!!の2期、てーきゅうの9期など今では考えられないほどの日常系アニメが放送されていた(というかこの辺りが最後の輝きという気もする)。その中でも個人的にダークホース(?)的な存在だったのが『このはな綺譚』だった。この作品は日常系特有のほのぼの感に加えて独特の「エモさ」を持っており、日常系においてほのぼの感となかなか両立しづらい雰囲気を纏った作品は後にも先にも無く、印象深かった。あとは『エロマンガ先生』を死ぬほどつまらないと思いながらめちゃくちゃ頑張って歯を食いしばりながら見ていたがあまりの苦痛に耐えかねて10話で断念したことや、当時はもちろんのこと今でもパチスロ等に全く関わりがないのに『ツインエンジェルBREAK』を深夜に偶然見てハマり(?)、前作の『快盗天使ツインエンジェル』も含めてツインエンジェルシリーズのアニメを全て見たりしたのはかなり深く印象に残っている。
 そんなこんなで2017年は中学時代の苦痛や親との揉め事を伴った引きこもり期間から解放され、とても牧歌的な引きこもり生活の中で様々な面白いものに出会う事が出来た。まだまだこの年に出会ったものについて記述出来ると思うが、締めどころを失いそう(もう既に失っているが)なのでこの辺で止めておくことにする。

綴方教育(1)

綴方教育(1)

 

ここ数ヶ月、私はサッカーにハマっている。きっかけといえばご多分に漏れず昨年末開催されたカタールW杯なのだが、そのきっかけとなったW杯を私は1試合もまともに見ていない。それなのになぜサッカーにハマったのかといえば、アルゼンチン代表が優勝し同国代表でありキャプテンのリオネル・メッシが悲願のトロフィーを手にしたからだ。しかしこれでは全く説明になっていない。というか、さらに意味がわからなくなっている。それに冒頭で言った「ハマっている」という言葉もなにか違うような気がする。それは、私がそもそも小学2年から中学3年までの7年間サッカーをしていたいわば経験者であり、それまである対象を知らなかった人間が何かのきっかけでそれにのめり込んでゆく際の言葉としての「ハマっている」という動詞は当てはまらないように思われるためである。それでも、私が今の状況を説明する際に「サッカーにハマっている」というのが正しいと思われるのは、私がサッカーをやっていた当時、私はサッカーのことが大嫌いだったからである。私の故郷は山に囲まれた、コンビニひとつもないようなド田舎なのだが、なぜかサッカー熱が強く、小、中と全国レベルまたはそれに準ずるような子たちに囲まれていた。私は、そのような子たちの間で、小学校時代はクラブチームとスポーツ少年団を兼ね、中学校からはクラブチーム一本で毎日のようにサッカーをしていた。私は周りのような卓越した選手ではなかったが、それでも明確に劣っているという程でもなく、それなりに運動能力も技術もあった。それでもサッカーというか集団競技が合わずサッカーのことが嫌いだったが、サッカー好きな親からの圧やド田舎の狭すぎる人間関係を考えると辞めることは出来なかった。私は中学2年から学校に行かなくなったが、クラブチーム所属だった上そこでの人間関係には恵まれていたので精神的に安定している時にはサッカーの練習や試合に参加した。しかしその辺で親も私に対する諦めがつき(遅い)、更に僕が高校に行かないと言い張って親と揉めていたため僕が中学校卒業後にサッカーをつづけるうんぬんの話どころではなかった。ちなみに高校はというと、揉めた上で受験し一応進学はしたが登校初日から不登校1ヶ月で中退したため部活の「ぶ」の字すら出なかった。

話に戻ると、私は最近までサッカーに全く興味がなかったのである。サッカー少年だった当時もプロの試合なんて一切見なかったし、県大会のベスト4だか8だかで負けて泣いている仲間を見ても全く共感できなかった。これのなにが面白くてなぜ君たちはこんなものに情熱を傾けているのかと、彼らに聞きたかった。当然そんなことは出来る訳もなく、私は日々自分がサッカーを嫌々やっていることを周りに悟られないために隠れキリシタンばりに震えて過ごしていたのだが。そういうわけで私は今初めてサッカーに「ハマっている」と言えるのだ。

そしてリオネル・メッシは私たちの世代の大スターだった。私がサッカーをやっていた頃は彼とクリスティアーノ・ロナウドがトップ選手として競っており、いわゆる「メッシ・クリロナ時代」の全盛期だった。当時のサッカー少年の大半はバルセロナ派かレアル・マドリード派、またはメッシ派かクリロナ派のどちらかで分けることが出来た。そんなメッシが悲願だったW杯のトロフィーを掲げる姿を昨年末ニュースやらで見て、日本戦どころか1試合もまともに見ていない私にもなにか込み上げてくるものがあった。それはメッシや自分の過去に対する特別な感情と言うよりかは、なにか自分に対するもの、つまり「今ならサッカー、楽しめるんじゃね?」的な期待感だった。10年以上前からスターであり続け、ついにスターの一歩先へ進んだメッシには、見ているものを感動させる力があったことは間違いない。無論私にその力は作用せず、その時点では「へーメッシってまだやってんだ」程度の感想しか持たなかったが、それでも、その姿は「今では楽しめるのではないか」というような謎の期待感を生むような、ある種ねじれた仕方で私に働きかけた。

そんな謎の期待感をもった私であったが、サッカーの試合を見るのは実にめんどくさい。実際大の大人が1つの球を必死になって追いかけている様を90分見続けるのは酷というものである。YouTubeでプレイ集的なものも見たが、ロナウジーニョのプレイ集(だいたいどの動画も内容は同じ。リフティングで数人の相手を翻弄するやつとかキーパーが手で浮かせた球を横取りするやつが必ず入っている)を少し見ただけですぐに飽きてしまった。この時点でもう既に先ほどの期待感はくじかれているのではないかと思うが、それでも今私はサッカーにハマっているのだ。ではどうやって楽しんでいるかというと、ひたすらサッカーに冠する周辺情報を集めている。毎日のように4大リーグの順位や試合結果を調べ、サッカーに関するまとめブログを眺め、移籍に関するニュースや選手の市場価値等をこまめにチェックしている。ここまで来ればもうりっぱなサッカーファンと言っても差し支えないのではないだろうか。実際トロフィーを掲げるメッシを見た際に私が抱いた期待や多くの人がする想像とは大きくズレているに違いないが、私は人生で初めてサッカーに興味を持ち、ハマっているのである。1日のうち多くの時間をサッカーに関する周辺情報を調べることに費やしている。これはなんとも言えぬ楽しさを伴っている。線に囲まれた地の上で足を使って球を転がしては追っかけるあのゲームとは全く関わらずに、それに関する情報だけをひたすら集める。実際自分でやっていて何が楽しいのか正直全く分からないが、それでも毎日プレミアリーグの順位表を見て勝ち点や得失点差がどうなっているとか、あるいはCLのベスト81stレグがどうだとか、あの選手はどこに移籍するだとかについて調べるのは楽しい。

つまり私はサッカーにハマっていると言ってもサッカーそれ自体を楽しんでいるのではなく、サッカーに関する周辺情報をひたすら漁っては悦に入っているわけである。何故こんなことを楽しんでいるのかと私自身に問えば、その無意味さが私に適しているように感じられるからかもしれない。

実際、サッカーそのものには一切触れずに周辺情報をひたすら集め続けるというのは全く意味も実質もない行為であり、実用性のないゴミをひたすら漁り続けることと同じなのであるが、それがまた楽しいのである。知らないのに知った素振りを見せるような人に対して「知ったかぶり」と言うが、当然この言葉はなにかを知っている人、または詳しい人に対置されている。知ったかぶりをするのは恐らく見栄をはるためであり、または知識自慢等も見栄をはるためであろう。そしてそのような傾向に沿ったものとして、悪い意味の「教養」がある。実質がなく、ただ見栄をはるためだけにつけられた知識としての「教養」。そして実質の伴った、真からの教養というのも存在する。それは動機の純粋さとしてもそうであるが、当然質的なものも含まれる。

では、「サッカーにハマっている」この私はなんなのだろうか。見栄をはるためでも純粋にサッカーそのものが好きでもないのに、ひたすらなんの実質もない情報を集めるのにハマっている意味のわからない人。それは全く意味のない記号の集積でしかなく、なんだか教科書等に載っている「ハイパーインフレしたマルク紙幣で遊ぶ子ども」みたいな写真を思い出す。ただの紙ペラ同然の紙幣、見栄をはるためでもなんらかの強度をあげるためでもない知識。本当に全くなんの意味も実質もなくただそういう情報を集めては「フヒヒ」と言っている。ひたすら積もりに積もる意味のない記号たち。先ほど「りっぱなサッカーファンと言っても差し支えないのではないだろうか」などと言ったが、「サッカーに関係する情報だけをひたすら集め続けることに楽しみを感じていること」はもはやサッカーそれ自体とはなんの関係もない。それでもガワだけ見れば私はりっぱなサッカーファンなのである。ガワだけ見れば。しかし「純粋に」全く意味のない記号たちを集めることに腐心している様は「知ったかぶり」とも「見栄っ張り」とも違うなにかである。もはや私はいわゆる「哲学的ゾンビ(よく知らないが)ならぬ「哲学的サッカーファン」的ななにかなのであり(それとはまた違う気がするが)、むしろ切手を集めたりするような収集癖に近いのだが、それでも集めているものは無意味な情報である。

  このように私は無意味な記号を消費しては悦に入っているわけだが、なんだかそれは深夜アニメを見て「萌え〜」と独りごちる時の感覚に似ている。これは別にオタクである私がアニメという記号が云々という話に持っていきたいわけではなく、知らず知らずそういう現象が身の回りで起きていることへの単なる実感である。なんにも繋がってない情報の集積は無意味であり無意味なものは悪しきものであるというような風潮があるが、実際世界を見渡せばそういうものに溢れかえっており実際それらが意味あるかないかなど私には判断がつきかねる。と、いうようなことを考えているとまた私はりっぱなサッカーファンです、と言いたくなってくる。

  そういうわけで私は最近サッカーにハマっている。線で囲まれた地の上で足を使って球を転がす競技にも汗を流してそれに取り組む方々にも全く興味が無いが、私は最近サッカーにハマっている。