ギャル式綴方教育

S U P E R G A L

太眉で関西弁でデカパイとは何の謂いか

 今からもう6年ほど前になるが、ゆるキャンというアニメの第1期が放送されていて、当時のオタクの例に漏れず「きららアニメ」の看板に釣られて(当時はきららフォワード連載だった)私も視聴することにした。これまでの日常系にあまりない写実的な背景やキャンプ描写に気圧されながらぼーっとみていたら、太眉で関西弁でデカパイでcv豊崎愛生のキャラクターが出てきて、おもわず「エロすぎだろ...」と呟いてしまった。私はこれを「犬山あおいの衝撃」と呼んでいる。

犬山あおいが衝撃的だったのは、ただ太眉で関西弁でデカパイでcv豊崎愛生であったから、というわけではない。あまりにも「日常系」または「きらら」の枠をはみ出した下品さ。衝撃以外の何物でもなかった。こんなのアリ!?この犬山あおいの前代未聞の下品さに惹かれたことは言うまでもない。

ところで、往々にして萌えアニメーションというのは性的な目線を経なければ成立しない、言うなれば「シコってる」わけだが、日常系アニメにおいてその「シコってる」性がいかに表出するか、というのは少し複雑な話になる。日常系はある外延を確定してその内部(日常)を描くことで日常系足りうるが、その外延をどう描くか、ということと「シコってる」性というのは重なるからだ。日常系の始祖とも言っていいあずまんが大王においてはメインキャラクターたちをひたすら性的な目線で見る木村というトチ狂った教師の存在がことさら際立っているが、いわばこの木村の存在が大阪さんとセックスしたいとか、神楽さんと結婚を前提としたお付き合いしたいとか考えているような視聴者(私です)の暗示であると言える。あずまんが大王ほど直接的かつ原始的()な表出の仕方はその後全くと言っていいほど出てこない(どころか今やってもおそらく叩かれるだけだろう)が、結局のところどんな日常系においてもその日常の外部の示唆とさらに超越的な視聴者=私たちの存在の示唆が含まれている。

ゆるキャンに戻ると、このアニメ、それまでにはあまり見られなかったほどに背景やキャンプ描写に力を入れていて、写実的なのは勿論のこと実際の現実の中にアニメキャラクターの日常がポンと置かれているような特殊な感覚を覚える。それでも彼女達の日常が日常たりえているのは彼女達の外部に関して中途半端にではなく徹底的にリアリズムを貫くことで、逆説的に彼女たちの日常が守られているのだと思われる。

  また脇道に逸れるが、萌えアニメーションにおいてリアリズムや自然主義というのは厄介なもので、某都アニメーションに代表される萌アニメーションにおける自然主義リアリズムの伝統は、これが単なるお茶目なアイロニーに収まれば良いのだが、それを本気で貫いてしまうと、すなわち、キャラクター描写から何から何まで自然主義リアリズムを貫いてしまうと、視聴者は性的な話題にブチギレる自意識過剰な思春期の少年みたいな意味のわからない意識の高さをただ見せつけられるだけになってしまう。萌えキャラクターを描くことの「シコってる」性というのは当然ここでも関係してくるわけで、萌えキャラクターを描いておきながら「いや、私シコってませんよ」みたいな謎アピールをされてもこちらはただ困惑するしかない。この写実性や自然主義リアリズムを上手く調整できている例は少ないが、こと日常系においてはあまり問題になることはない(というか、日常系とは何か、というのが共通認識として暗黙のうちに守られているのだと思う)

で、犬山あおいだが、一見すると、犬山あおいの下品なエロスをを語るさいにそのキャラクター造形に触れるだけで十分なように思われる。太眉で関西弁でデカパイでcv豊崎愛生、すぐに嘘をつく(「クリスマスは彼氏と過ごす など」)、スーパーでレジ打ちのバイトをしている......勿論これだけで十分エロいのだが、やはり犬山あおいが1つの衝撃たる所以は、ゆるキャンというアニメに存在するから、だろう。写実的な自然描写の中で明らかに自然には存在しない美少女達が現実のおっさんがやっているようなキャンプをやっている。この中であってこそ、犬山あおいの下品なエロスが最も輝く。ガワは萌えキャラクターで、かつ文字通りの日常系の渦中にいる彼女だが、すぐ嘘をつくしスーパーでパートのおばさんに混じってバイトをしているし、服を脱げばダサめのブラをつけていてかつブラ紐が乳の重みに負けて引っ張られている(この描写は決定的だと思う)し、2期で1人だけ主婦みたいな私服を着ている。しかしこの犬山あおいの下品なエロスは彼女達の日常を破壊しないどころか強化している。この犬山あおいの下品さが現実とアニメーションにおける日常の境界線になっている。美しいなでしこたちの日常は犬山あおいのデカパイによって守られている。

犬山あおいの下品エロスによって守られる日常が存在する。また同時に、それによって歓喜される劣情も存在する。両者は交わることは無い。しかしながら、この日常と劣情はどちらが欠けてもならない。日常と劣情は相補関係にある。