ギャル式綴方教育

S U P E R G A L

綴方教育(1)

綴方教育(1)

 

ここ数ヶ月、私はサッカーにハマっている。きっかけといえばご多分に漏れず昨年末開催されたカタールW杯なのだが、そのきっかけとなったW杯を私は1試合もまともに見ていない。それなのになぜサッカーにハマったのかといえば、アルゼンチン代表が優勝し同国代表でありキャプテンのリオネル・メッシが悲願のトロフィーを手にしたからだ。しかしこれでは全く説明になっていない。というか、さらに意味がわからなくなっている。それに冒頭で言った「ハマっている」という言葉もなにか違うような気がする。それは、私がそもそも小学2年から中学3年までの7年間サッカーをしていたいわば経験者であり、それまである対象を知らなかった人間が何かのきっかけでそれにのめり込んでゆく際の言葉としての「ハマっている」という動詞は当てはまらないように思われるためである。それでも、私が今の状況を説明する際に「サッカーにハマっている」というのが正しいと思われるのは、私がサッカーをやっていた当時、私はサッカーのことが大嫌いだったからである。私の故郷は山に囲まれた、コンビニひとつもないようなド田舎なのだが、なぜかサッカー熱が強く、小、中と全国レベルまたはそれに準ずるような子たちに囲まれていた。私は、そのような子たちの間で、小学校時代はクラブチームとスポーツ少年団を兼ね、中学校からはクラブチーム一本で毎日のようにサッカーをしていた。私は周りのような卓越した選手ではなかったが、それでも明確に劣っているという程でもなく、それなりに運動能力も技術もあった。それでもサッカーというか集団競技が合わずサッカーのことが嫌いだったが、サッカー好きな親からの圧やド田舎の狭すぎる人間関係を考えると辞めることは出来なかった。私は中学2年から学校に行かなくなったが、クラブチーム所属だった上そこでの人間関係には恵まれていたので精神的に安定している時にはサッカーの練習や試合に参加した。しかしその辺で親も私に対する諦めがつき(遅い)、更に僕が高校に行かないと言い張って親と揉めていたため僕が中学校卒業後にサッカーをつづけるうんぬんの話どころではなかった。ちなみに高校はというと、揉めた上で受験し一応進学はしたが登校初日から不登校1ヶ月で中退したため部活の「ぶ」の字すら出なかった。

話に戻ると、私は最近までサッカーに全く興味がなかったのである。サッカー少年だった当時もプロの試合なんて一切見なかったし、県大会のベスト4だか8だかで負けて泣いている仲間を見ても全く共感できなかった。これのなにが面白くてなぜ君たちはこんなものに情熱を傾けているのかと、彼らに聞きたかった。当然そんなことは出来る訳もなく、私は日々自分がサッカーを嫌々やっていることを周りに悟られないために隠れキリシタンばりに震えて過ごしていたのだが。そういうわけで私は今初めてサッカーに「ハマっている」と言えるのだ。

そしてリオネル・メッシは私たちの世代の大スターだった。私がサッカーをやっていた頃は彼とクリスティアーノ・ロナウドがトップ選手として競っており、いわゆる「メッシ・クリロナ時代」の全盛期だった。当時のサッカー少年の大半はバルセロナ派かレアル・マドリード派、またはメッシ派かクリロナ派のどちらかで分けることが出来た。そんなメッシが悲願だったW杯のトロフィーを掲げる姿を昨年末ニュースやらで見て、日本戦どころか1試合もまともに見ていない私にもなにか込み上げてくるものがあった。それはメッシや自分の過去に対する特別な感情と言うよりかは、なにか自分に対するもの、つまり「今ならサッカー、楽しめるんじゃね?」的な期待感だった。10年以上前からスターであり続け、ついにスターの一歩先へ進んだメッシには、見ているものを感動させる力があったことは間違いない。無論私にその力は作用せず、その時点では「へーメッシってまだやってんだ」程度の感想しか持たなかったが、それでも、その姿は「今では楽しめるのではないか」というような謎の期待感を生むような、ある種ねじれた仕方で私に働きかけた。

そんな謎の期待感をもった私であったが、サッカーの試合を見るのは実にめんどくさい。実際大の大人が1つの球を必死になって追いかけている様を90分見続けるのは酷というものである。YouTubeでプレイ集的なものも見たが、ロナウジーニョのプレイ集(だいたいどの動画も内容は同じ。リフティングで数人の相手を翻弄するやつとかキーパーが手で浮かせた球を横取りするやつが必ず入っている)を少し見ただけですぐに飽きてしまった。この時点でもう既に先ほどの期待感はくじかれているのではないかと思うが、それでも今私はサッカーにハマっているのだ。ではどうやって楽しんでいるかというと、ひたすらサッカーに冠する周辺情報を集めている。毎日のように4大リーグの順位や試合結果を調べ、サッカーに関するまとめブログを眺め、移籍に関するニュースや選手の市場価値等をこまめにチェックしている。ここまで来ればもうりっぱなサッカーファンと言っても差し支えないのではないだろうか。実際トロフィーを掲げるメッシを見た際に私が抱いた期待や多くの人がする想像とは大きくズレているに違いないが、私は人生で初めてサッカーに興味を持ち、ハマっているのである。1日のうち多くの時間をサッカーに関する周辺情報を調べることに費やしている。これはなんとも言えぬ楽しさを伴っている。線に囲まれた地の上で足を使って球を転がしては追っかけるあのゲームとは全く関わらずに、それに関する情報だけをひたすら集める。実際自分でやっていて何が楽しいのか正直全く分からないが、それでも毎日プレミアリーグの順位表を見て勝ち点や得失点差がどうなっているとか、あるいはCLのベスト81stレグがどうだとか、あの選手はどこに移籍するだとかについて調べるのは楽しい。

つまり私はサッカーにハマっていると言ってもサッカーそれ自体を楽しんでいるのではなく、サッカーに関する周辺情報をひたすら漁っては悦に入っているわけである。何故こんなことを楽しんでいるのかと私自身に問えば、その無意味さが私に適しているように感じられるからかもしれない。

実際、サッカーそのものには一切触れずに周辺情報をひたすら集め続けるというのは全く意味も実質もない行為であり、実用性のないゴミをひたすら漁り続けることと同じなのであるが、それがまた楽しいのである。知らないのに知った素振りを見せるような人に対して「知ったかぶり」と言うが、当然この言葉はなにかを知っている人、または詳しい人に対置されている。知ったかぶりをするのは恐らく見栄をはるためであり、または知識自慢等も見栄をはるためであろう。そしてそのような傾向に沿ったものとして、悪い意味の「教養」がある。実質がなく、ただ見栄をはるためだけにつけられた知識としての「教養」。そして実質の伴った、真からの教養というのも存在する。それは動機の純粋さとしてもそうであるが、当然質的なものも含まれる。

では、「サッカーにハマっている」この私はなんなのだろうか。見栄をはるためでも純粋にサッカーそのものが好きでもないのに、ひたすらなんの実質もない情報を集めるのにハマっている意味のわからない人。それは全く意味のない記号の集積でしかなく、なんだか教科書等に載っている「ハイパーインフレしたマルク紙幣で遊ぶ子ども」みたいな写真を思い出す。ただの紙ペラ同然の紙幣、見栄をはるためでもなんらかの強度をあげるためでもない知識。本当に全くなんの意味も実質もなくただそういう情報を集めては「フヒヒ」と言っている。ひたすら積もりに積もる意味のない記号たち。先ほど「りっぱなサッカーファンと言っても差し支えないのではないだろうか」などと言ったが、「サッカーに関係する情報だけをひたすら集め続けることに楽しみを感じていること」はもはやサッカーそれ自体とはなんの関係もない。それでもガワだけ見れば私はりっぱなサッカーファンなのである。ガワだけ見れば。しかし「純粋に」全く意味のない記号たちを集めることに腐心している様は「知ったかぶり」とも「見栄っ張り」とも違うなにかである。もはや私はいわゆる「哲学的ゾンビ(よく知らないが)ならぬ「哲学的サッカーファン」的ななにかなのであり(それとはまた違う気がするが)、むしろ切手を集めたりするような収集癖に近いのだが、それでも集めているものは無意味な情報である。

  このように私は無意味な記号を消費しては悦に入っているわけだが、なんだかそれは深夜アニメを見て「萌え〜」と独りごちる時の感覚に似ている。これは別にオタクである私がアニメという記号が云々という話に持っていきたいわけではなく、知らず知らずそういう現象が身の回りで起きていることへの単なる実感である。なんにも繋がってない情報の集積は無意味であり無意味なものは悪しきものであるというような風潮があるが、実際世界を見渡せばそういうものに溢れかえっており実際それらが意味あるかないかなど私には判断がつきかねる。と、いうようなことを考えているとまた私はりっぱなサッカーファンです、と言いたくなってくる。

  そういうわけで私は最近サッカーにハマっている。線で囲まれた地の上で足を使って球を転がす競技にも汗を流してそれに取り組む方々にも全く興味が無いが、私は最近サッカーにハマっている。