ギャル式綴方教育

S U P E R G A L

私は、声豚では、ありません。episode.0

 

〜とある法廷にて〜

検察官が、俯き加減のオタクに問う。

「お前は声豚か?」

「違います……

「じゃあ何故お前はそんなに毎日何時間も気持ち悪い笑みを浮かべながら声優ラジオを聞き、声優のSNSを眺めているんだ?」

「好きだからです……

「声優が好きなんだろ?じゃあ声豚じゃあないか」

「違います……違うんです……僕は……

「一体何が違うというんだ!」

「僕は……声優ラジオのオタクなんですッッッッッ!!!!!!」

 

そもそも声豚とは、なんだ?声優のどこを好きなら声豚になるのだろう。声優はその名のごとく声で商売をしている訳だが、その声優の声のみを仮に「推した」場合、その声のみを推しているオタクは声豚なのか。仮にアイドルなどを例に取った場合、そのアイドルの部位を、部分を切り取る形で「推す」ということはなかなかないように思われる。しかしそれでも「声豚」という言葉が存在するのは、声優が声のみで商売をしているとは限らないからだ。近年その傾向が特に著しいが、声優——声で演じることを生業とする——その人自体をひとつのコンテンツにするというような傾向が存在しているために、元々声というある種の部位を使って仕事をする声優を「推す」ということが可能になり、声豚が発生したのだと考えられる。そのようなコンテンツ化された声優その人のオタクは声豚と呼ばれる。そしてその声優はアニメのキャラクターに声をあて、キャラクターを演じた「声優」として、あるアニメの内部にある1コンテンツとしての「アニラジ」つまり声優のラジオが生まれた。そして現在アニメやゲームなど声優が演じることを前提としたコンテンツ内部のコンテンツとしてのアニラジだけでなく、声優その人がパーソナリティ——つまり、その人自身——として出演するラジオが存在し、そのようなラジオも「アニラジ」と呼ばれる。

  先に触れた声優のコンテンツ化とは、そのほとんどが何がしかのコンテンツ、つまり声優がキャラクターに声をあてることに紐付けられている。要するに2次元のキャラクターを通して、——通してという言い方はあまり適切ではない、やはり紐付けられている、というのが正しい——「中の人」を見、同一視するにせよ分離して見るにせよ、ある種のキャラクターとの紐付けの中で生まれている。

多くがキャラクターを出発点として声優その人を結果的に推すことになるだろう。しかしある2次元コンテンツを出発点としたことは紛れもない事実であり、そこから出発したオタクは割と正統に、「声優のオタク」であると言える気がする。なぜなら声をあてている俳優さんを好きになったのだから、それは声優のオタク以外のなんであろうか。

問題は、先に触れたアニラジである。声優のコンテンツ化が過激化している近年はコンテンツ内部のコンテンツとして以上に声優その人自身が自らの名で番組を持つことが多くなっている。そしてその供給は当然先程の「声優のオタク」の需要に向けられている。それを聞く多くのリスナーは当然そのような「コンテンツ化された声優さん」が話すのを聞きに来ている。そこでは「ラジオパーソナリティとしての声優」が生まれるわけだが、「コンテンツ化された声優」という現象の前には意味をなさないように思われる。なぜならコンテンツ化された声優が演技と関係なく話すということに全く問題がなく、それを前提として成立しているため全く問題にならないからだ。

すこし話が変わるが、そのようにして「アイドル声優」なるものが生まれたのだと思う。先に触れた2次元コンテンツに紐付けされた上でのコンテンツ化を経て、声優であり独立したアイドルであるというようなコンテンツ化の仕方、それがアイドル声優であり、その「アイドル」の側面においては実際は2次元コンテンツとの紐付けが多いが、アイドル声優という権利上、紐付けがなくても問題がないようになっている。つまり、このアイドル声優という言葉は、そんなに「声優その人」にフォーカスするんなら、もういっそのこと声優にアイドルつけちゃえ、的なことで生じたのだと思われるが、その内実はその人自身のコンテンツ化が先立ちながら2次元のキャラクターに声をあてる、というある種の逆転現象を生み出している。尤も、最終的にはアイドル声優はそのほとんどがアイドル業と声優業を紐付けることで声優のコンテンツ化の最たるものとして君臨するに至る訳だが。

  話をアニラジに戻そう。パーソナリティとしての声優は大部分のリスナーからは「声優のコンテンツ化」を前提としているために、2次元コンテンツの紐付けにより生じたコンテンツ化された声優を「推」しているオタクがその声優の話を聞くために聞くものが現在の大部分の「アニラジ」である。実際、アニラジを聞いてみれば、そのほとんどが相当に「ユル」く、特に笑いを誘うものでも無ければ、特にこれといって内容があるわけでもなく得られるものもない。おそらくこの「ユル」さがある種のコードとして働いており、それがコンテンツ化された声優それ自体とそのコードを前提として聞くものとして、言ってしまえばラジオそのものとしては自律しないものとしてのアニラジという存在を規定しているように思われるのだ。

しかし、そこにあまり事情を知らずに迷い込む人も多くはないがいるだろう。あまり事情を知らなくても、仮に声優には疎いがアニメが好きな人が、偶然好きなアニメの声優のラジオを聞きそのアニメに出演していた声優だと分かれば紐付けによってコンテンツ化された声優と結びつけもできよう。しかしそうでなかった場合、おそらく大半の人は「なにこれ?」と思って直ぐに聴くのを辞めてしまうだろうが、それにハマってしまう物好きも多くはないが存在する。この世で最も悲しいモンスター、「声優ラジオオタク」の誕生である。声優ラジオオタクは、声優のコンテンツ化には興味が無いが、声優ラジオを好む、という謎の存在であり、その番組の「パーソナリティ」のことを「推す」可能性がある。その場合、このオタクは一体なんなのか。おそらくコンテンツ化された声優の話を聞きに来ているリスナーとも何か違うような感覚を味わうだろう。この人(たち)が出演するアニメにもこの人(たち)の声にも別に対して興味はない。しかしこの人(たち)の話が、この人(たち)の話している空間が好きなのだ。そして何よりラジオのパーソナリティとしてのこの人(たち)が。そもそもパーソナリティとしてのこの人(たち)以外に興味が湧かない。というかそもそも声優の名を知っていようと、その声優がラジオで話しているのを聞かない限り、つまりその声優がパーソナリティにならない限り、その声優に対してなんの関心も湧かなければなんの判断もできない。声優ラジオオタクにっとては全てがラジオありきなのだ。

ここまで来てしまえばもう声優のコンテンツ化等とは全く別の問題になってしまう。そのようなアイデンティティを微妙〜に損なっている「声優ラジオオタク」たちは一体自分たちをどう形容すればいいのか。もう「私は声優ラジオオタクです」以外に言い様がない、と感じてしまうに違いない。

  という感じで、現在私自身は問答無用で声豚なのだが、先に触れた場合とは少々異なるものの元を辿れば似たような感じで声優ラジオオタクであり、そこから徐々にただの声豚になって行った身としてはずっと声優ラジオそのものに対する特別な感情を持ち続けていた。そしてそのような自らは単なる声豚であるという認識と声優ラジオオタクであるというような両儀的な認識をどうにもできず違和感を押し殺す形ではあるが一応の留保として後者の「声優ラジオオタク」を自称していたが、その生活もなんか終わりそうなので、どうにかこの声優ラジオオタクという違和感のある、ある種アイデンティティを欠く存在について素描してみたく思い、書いてみた。

水を打ったように静まり返った場内で、ついに裁判官が口を開く。

「ふ〜ん、どっちにしろキモいから死刑で」

〜閉廷〜